“残暑”


 10分前に買ったペットボトルは、10歩と進む間もなく底を乾かした。
少し視線を上げると灼熱の日が目を灼き、思わず眉をしかめる。
駅から歩く事約20分。そんな事は携帯で知ってはいたけれど、延々と歩き
続けているような気がしてならなかった。
 気怠く息を吐くと止まっていた重い足を又気怠く持ち上げた。
最高気温は37度だったろうか。体温と然程変わらない。今朝見たTVのニュ
ースが頭をかすめる。八つ当たりとは分かっていても、あの妙齢のニュース
キャスターが恨めしく思えた。あぁ、どうして私はこんな所を歩いているの
だろうか。そんな思いがぐるぐると廻り、微かに残る理性が待ち合わせをし
ているからだと耳打ちする。
 そう、あれは去年の放課後のこと。



  追憶




 「水族館に行かない?」
 放課後の薔薇の館で、同級生の水野蓉子はその顎のラインに切り揃えられ
た髪をさらりと揺らした。
何故私を誘うのだろうか。胡乱げにそう見遣ると聡い彼女は其れを察し、彼
女の妹ももう一人の同級生も用事があるのだと言った。
 私は残り物か。
其れは其れでしゃくなような気もしたけれど、私は差し出された其のチケット
を受け取った。
このところ休日は大抵、冷房の効いた部屋に籠るのが常だった。
今にしてみれば、たまには外出するのも良いかもしれないと思ってしまった
のが運の尽きだったように思える。

    


 後何分歩けば良いのだろう。
幸い、未だ待ち合わせの時間までには余裕がある。しかし、通学にばかり使
っていた足の寿命はもう僅かであることは手に取るように解る。滴る汗を拭
い、又直ぐに溢れ出る汗が疎ましく、じりじりと肌が焦げる音が耳に纏わり
付くような気さえしてくる。
 丁度、蓉子から其れを受け取ったのはシーズン最終日。
其のことを知った私は、蓉子からそれについての話題が出ないのを良いこと
に、それを日常の中へ埋没させた。
 しかし今思えば去年の自分ならば此の暑さに今頃途中で引き返し、家の冷
房にでも当たっていたのかもしれない。

 産毛に汗が頬を滑る感触を感じ、些か乱暴に其れを拭った。
自分の血には日本産ではない物も混ざっているらしいが、若しやそれが北欧
辺りのもので、その性質から暑さに弱いのではなないだろうか。
幼い江利子アメリカ人と言われたのをちらりと思い出す。
 何代も前になるであろう顔も知らない先祖を聖は呪った。
貴方の御陰で将来の親友とは天敵として出会い、今は日本の湿気多量の暑さ
に辟易していますよ。
自覚出来る程度に、聖の思考が乱雑に飛び交う。
此の暑さの所為だろうか。眉間に皺を寄せてから久しい。

 蓉子もそうだったのだろうか。
 有り得ないことではあるがそう思ってしまっても仕方がない。此れはらし
く無いミスだ。彼女ならば事前に日時と計画まで綿密に練りそうな物だが。
 いつの間にか歩道の模様を追っていた視線を上げる。
 陽光が強すぎた所為だろうか。視界の隅の日差しに翳り、墨を流したかの
様に濃く陰影を作る路地に目が吸い寄せられた。何かの事務所らしいビルと
立体駐車場の狭間に出来た僅かな隙間。人一人通るのがやっとではないだろ
うか。
 
 たまには、こういう所も良いと思うのだけれど

 不意に掠めたのはあの時の友人の台詞。そうだ、其れで良いかもしれない
と思ってしまったのだ。
何故かは分からなかったが、只黒々と翳る其の場所がとても涼しげに目に映
った。
  たまには、ね。
 彼女の台詞を揶揄する様に口の中で反芻し、聖は其処へするりと身を滑ら
せた。

 昨日、ふとしたことから仕舞われていた其のチケットを見付け、聖は蓉子
へと連絡を取った。案の定彼女は其れを覚えており、少し話題に上げただけ
で全てを先回りに理解した。

 太陽が及ばないというだけでこんなにも涼しくなるのだろうか。
其処はひんやりと冷たく、背後の雑踏の音さえも吸い込むようだった。
 ずっと先に同じく日に晒された白く滲んだ街路が見える。先刻から多少怪
しくなった方向感覚によれば、目的地はあの方向で間違ってはいない。上手
くすれば近道になるかもしれないという思いと、未だ時間はあると云う打算
が進む足を軽くした。汗ばんだ腕を霞める空気が心地良い。

 蓉子の対応は早かった。聖が連絡を取った直ぐ後に、水族館へ問い合わせ
新しくチケットを手配すると、数時間後には聖に空いている幾つかの日時と
待ち合わせ場所を告げてきた。改めて、聖は蓉子には敵わないと思った。

 路地裏を抜けると狭い場所から開けた場所に出た事を告げる様に、空気の
流れに伴った軽い開放感を覚えた。
再び注ぐ強い日差しに瞳孔が縮み、眉を顰める事数秒。光に慣れた目に映っ
たのは見慣れない街並みだった。
 いつか画面越しに見た異国の露店のような繋がった建物の低い軒が道を縁
取り、様々な衣服を纏った人々が行き交い、又店に鎮座している。
 聖は首を傾げた。方向を間違えたのだろか。あの状態ではそうなってもお
かしくは無い。
 首を巡らせるが表札らしい物はなく、見覚えのある物も無い。
 再度首を傾げ目を落とすと、足下にはいくつもの紐のような影が這い、其
れを辿る様に仰ぎ見れば其処には電線のようなコードが幾筋も幾筋も屋根の
上を行ったり来たりと青い空を覆う様に道を跨いでいた。

   ...Ave .....a, grot..a plena 

 遠くから、良く馴染んだ曲が細く耳に届く。
ここは祭か市場のようで、そう考えるとこの人ごみにも納得がいくような気
がした。風体は違うが、確かに独特の華やいだ雰囲気がここにはある。
 そう思うと、何処となく異国の雰囲気に浮いたその曲が笑いを誘った。
微かに頬を緩めると好奇心の向くままに目の前の露店を覗く。其処には整然
と並ぶ箱に山のように積まれた豆らしい様々な物が客の要求に袋詰めにされ
て売られていた。ポンチョのような物に身を包んだ男が無愛想にこちらを見
る。其れが何故だか微笑ましく思え、苦笑すると軽く手を挙げて隣の店へと
進んだ。
 其の店には林檎飴のような物が売られていた。棒の先のてらてらと光る黒
ずんだ色の丸い飴は、魅力的に微かな甘い香りを運んだ。そう言えば、昔林
檎飴を食べる自分という図がどうしようも無く子供じみて見えたことに反感
を抱き、余食べた記憶が無かった。そもそも人混みを避ける傾向があった所
為もあるのだろう、今こうして此の飴を抵抗無く見る事が出来るのは彼女た
ちの御陰かもしれない。
 そう思うと知らず口元に笑みが浮かんだ。
 又更に少し歩くと別の店が品を広げ、客の数人が其れを覗いている。
其処には、ステンドグラスのようなの硝子細工の器が並んでいた。修学旅行
で見た物を思い出す。
 花瓶でも買おうかと思ったけど、あれは高かったな。
鮮やかである筈のそれらは屋根の下で翳っている所為か、少しくすんで見え
る。其れでも僅かな光を浴び、台の上に敷かれたテーブルクロスに模様を透
かした影を落とす様は、とても幻想的だった。
 ついと、直ぐ隣にいた人がその一つを指差す。すると、白い髭を口元に蓄
えた老人が音も無く取り出した袋に其れは納まり、その人へと手渡された。
流れるような仕草で受け取ったその人の其の手からいつの間にか其の袋は消
えていて、恐らくあの厚ぼったい外套の中に仕舞ったのだろうと思った。
 此の曲は何処から聞こえてくるのだろう。
何の前触れも無くそんな事が脳裏に浮かび、其の店を離れると勘と耳を頼り
に道を進んだ。
雑踏は背景の様に廻りを流れ、川の中を逆行する様にするすると歩く。
その間にも横目に覗く店先には様々な物が置かれており、見慣れたペットボ
トルが売られている事もあれば、全く不可解な針金を組み合わせたような物
を置く店もあった。人垣越しには青い風船が揺れている。
 数分前までの不機嫌さを忘れ、徐々に大きくなる曲にあわせて音の連なり
を小さく口ずさんだ。

  Dominus tecum benedicta tu
 in mulieribus et benedictus
  fructus ventristui jesus.

歩調がスキップになりそうになった頃、漸く聖は足を止めた。
其処は他の店の様に屋根は無く、其処だけが堕ちくぼんだ様に何も無かった。
聖は、其の場所に申し訳程度の敷物を広げ、腰を落とした老人の横に其の姿
を見つけた。古めかしいレコードだった。きらびやかな装飾がいつかは施さ
れていたのだろう。剥き出しの木箱の所々にその痕はあった。
其れはノイズを交えながら、変わらず其の曲を紡ぎ出している。
「此の音が聞こえるのかい。」
 其処からしわがれた声が聞こえた。其の音は他にの音に邪魔される事なく
聖の耳に届く。
「私にはもう聞こえない。此の音は雑音。此れが聞こえるなら、お前はもう
お帰り。」
 緩慢に開いた口から言葉少なげに落とされた声は決して聞き取り易いもの
ではなかったが、其れでも何故か聖にはどんな音よりも鮮明に聞こえた。

   Sancta Maria,Sancta Maria,Maria
   Ora pronobis nobis peccatoribus
  nunc et in hora,in hora mortis nostoe

 聖が声も無く其の老人を見詰めていると、するりと老人は小さく光る物を
差し出す。思わず受け取ると、其れはレコードと似通った装飾の剥げ落ちた
痕が見られる、古めかしい鍵だった。手を左右交互に傾け角度を変えると強
い日差しを受け、きらきらと光る。聖が驚いて顔を上げると其処は店で埋
まり、空いた場所など無かった。
狐につままれたような気分になり、鍵を握るとざらついた感触が残る。
酷く存在の希薄だったあの店は、この人混みに流れてしまった様に思えて仕
方が無かった。
あの曲はもう聞こえない。

 Amen,Amen.

 最後の一節を口の中で小さく呟き、聖は又歩き出した。


 鍵。鍵穴を探せば良いのだろうか。ざらついた感触の鍵を手の中で弄ぶ。
当ても無く彷徨う聖に、人混みは色を失って見えた。
何もかもが黒ずみ、希薄で、曖昧で。
其の風景を見遣り、ふと思い至る。
 そう言えばあの林檎飴は、紅かったろうか。
無意識に後ろを振り返る。変わらず、人混みは只行き交うばかりで何の色彩も感じない。
「・・・何で?」
 呟いて初めて気が付く。誰の声も聞こえない。
耳鳴りのような茫洋とした音が充満するばかりで、人々の囁き、話し声、怒声さえも聞こえない。
音が無い。色が無い。
何故気付かなかったのだろう。
もう一度振り返る。
そう言えば、待ち合わせをしていたのだった。
早く行かなくては。もし待たせてしまったら何と言い訳しよう。いなかったら何か飲み物でも買って待とう。
待つ?誰か来るのだろうか?
待っても待っても、誰も来てはくれないのではないのだろうか。
誰が?決まっている。
 聖は走り出した。
そうだ、彼女は来なかった。私は待った。待って待って待ち尽くしていたのに。
肩がぶつかった。其の衝撃で、体がぐらりと傾いだような気がした。くらくらする頭を持ち上げ、感覚が無くなり始めた脚を蹴る様に又進めた。
 底冷えするような聖なる夜に誓った筈の約束は降りしきる雪の欠片の様で、触れると瞬く間に綻ぶばかり。
誰もいない駅のホール。私を押しつぶすように襲い来る冷気は徐々に力を増し。
何かの気配を感じて振り向くも、其処には誰もいなくて空虚に抱いていた期待に気付かされかじかんだ手に温もりが戻ることがあるのかと猜疑心に囚われ朧月にも似た待ち人は白い雪のように汚れた空気に黒ずみ融解し下水となる。
来ない来ない彼女は来ない。
私の為?私と一緒は嫌なの?私と一緒に死んではくれないの?
がむしゃらに走り、何もかもが歪む世界から逃げ出したくて目を背ける様に空を仰いだ。
あんなに青かった空は白く濁り光を湛えて全てを遮り、その光は零れ落ちること無く只貪欲に私を蝕もうとする。
冷たくなった私の心にあの日と同じ、雪が降り注ぐ。
其れは徐々に視界を覆い、世界までも真っ白に覆った。
頬を、刺すような冷気を孕んだ風が撫でる。
私はどうして生きているのだろう。聖は声を上げて笑った。
何もかもが矮小で莫迦らしい。何故皆あんな必死な形相で生きているのだろう。
全身で上げた哄笑はしかし、雪の空に吸い込まれるばかり。
体中が痛い程冷えて走り続けるのが辛くなり、脚を引きずるように走り徐々に速度が落ち歩いた末、脚がもつれ、倒れ込む様に転んだ。其れでも、肺が引き攣る様に笑いが止まらない。壊れてしまったのだろうか。其れすらもおかしくて仕方が無い。
いつの間にか、辺りには誰もいなかった。
白い世界に一人きり。
雪が霏霏として降り注ぎ、白皚皚たる雪化粧はふわりふわりと私を包んだ。
そう、来なかった。彼女は来なかった。あぁ何故こんなにもおかしいのだろう。
そう、私は世界を嘲っていたのだ。そして、世界はそんな私を嘲笑に帰した。
何故忘れていたのだろう。世界はこんなにも醜くてそれは歪んでいてそれは逆説美しくて。
 ふわり、ふわり。
音も無く降る雪の中をたゆたう様に、戯れる様に浮くのは青い風船。
そういえば、店先にいたね。
話しかける様に心中で呟き、無為にその行方を目で追った。
 ふわり、ふわり。
けれど、中々空へと向かわない。
行きたい場所へ行けるというのに、何を躊躇しているのだろうか。
 ふわり、ふわり。
白い世界の中で風船は悪戯に零した絵の具にも似ていた。
 ふわり、ふわり。

色が、

 唐突に思い当たり、その驚きに脚がすくむような気さえした。
勢い良く身を起こす。その間、一度も風船から目が離せなかった。灰色の曇天を背景に鮮やかな青が灯っている。
聖は風船へと手を伸ばした。
 ふわり、ふわり。
風船から垂れた紐が、聖の手から逃れる様にするりと逃げた。少し触れた其の紐の感触にふわふわの髪を思い出す。
志摩子は今頃何をしているのだろう。もう会えないのだろうか。聖は必死になって腕がちぎれる程に手を伸ばした。
中指に微かに触れた。其の衝撃に跳ねた紐に、二つに結ばれた癖毛を思い出す。
祐巳ちゃんは祥子と一緒にいるかな、きっと百面相をしているに違いない。祥子の苦笑が目に浮かぶようだ。
大分逃げてしまった。脚を屈め飛び跳ねて、はたく様に掴もうとするも聖の必死さをからかう様にひらりと逃げてしまう。
どうせはたくなら由乃ちゃんに、やり方教えてもらえば良かったな。何時か、良い音を立てて彼女の従姉を殴っているのを見たことがある。
あの高さでも令ならまだ届くかしら。
こんなに必死になっている姿を見たら、江利子は笑うかもしれない。
いつの間にか、雪が白い花弁になっている事に気が付く。冷気が晴れ渡るように消えた。
そう、私は白薔薇さまと呼ばれていた。
 ふわり、ふわり。
急に風船が近づいた。その一瞬に聖は歓喜した。
ああ花弁が運んで来てくれたんだ。しっかりと掴んだ紐を手繰り寄せ、青い風船を割れる程強く抱きしめる。
すると思ったよりも強い手応えが返り、見れば其処には小さな穴が口を開き、其処から鍵と同じしかし真新しい装飾が青い表面をなぞる様に広がった。聖はずっと握りしめていた鍵を其処へ差し込み、ひねるとちゃりと金具の噛み合うような音が伝わってくる。
再び青い風船を抱きしめ、聖は空を仰いだ。風船と比べて遜色のないほど、青く澄んだそらが白い花弁の向こうに広がっていた。
聖はそのまま花弁に撒かれて青い空の中を堕ちていった。もしかすると、上っているのかもしれない。胸の風船が暖かく感じる。
 聖は、少し離してそれをみると一人の友人の名前が浮かんだ。







 「何?」
 蓉子が振り返る。
久しぶりに見る蓉子の私服は、何処となく新鮮に思えた。
「何が?」
「今、私の名前呼ばなかった?」
 私は首を振る。
「おかしいわねぇ。確かに呼ばれたような気がしたのだけれど」
「空耳じゃない?」
 言って、近くの水槽を見遣った。 
鮮やかな色をした魚は見物客を他所に、悠々と水の中を泳いでいる。
其の手前に映る彼女の首を傾げる姿が何となくおかしかった。
「ほら、立ち止まってないで。魚だって暇じゃないのよ。」
 自然な仕草で握れたと思う。頬が少しぎこちなくなっているのは前を進んでしまえば分からない。
 お昼は何にしよう。そんな事を考えて、気恥ずかしさから目をそらした。






補足↓


 “残暑”、又は“追憶の街”。←タイトル 
    .......何か、こういう話的には展開が月並な気が。(←才能ゼロ
  多分そのうち書き直すのだろうと思います。といいますか、時系列は無視の方向で・・・。

 ちなみに、曲は言わずと知れた歌曲グノーのアヴェ・マリア*1
・・・やたらと話の内容とあっていませんね。

*1:聖母マリアの讃歌。今回使用した曲は19世紀フランスの作曲家グノーがJ・S・バッハ(1685−1750)の“平均律クラウ゛ィーア曲集”第一巻第一番のプレリュードを伴奏部に用い、其の上に瞑想的な旋律を書き加えた物です。