疲れました。もう何も出来ません。


・・・骨組みですが。

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遊閑千
広告うざいですねー。
消せない事はありませんが、せめて別の所にすれば良かったですね。
取り敢えず、表示されるか心配ではありますが置けたので良しとします。






ああ、何やら凄い無気力。


て、うわあ。もう直ぐ2万hitですか。ページ移動だけでカウンターがくるくる回るものですから然程来ていないくせに中流サイトのような(ry

どうしましょうか。キリ番すべきでしょうか。


あちら様のお題が殊の外難しくて、構図すら中々浮かばないというのに。

以下独り言。
 感謝の意を込めて描きたいのですけど、あれですね、スランプが酷い。筆が重い。
本当に意思でどうにもなるものではないのだなと。こういうとき、本当に絵が好きな人との差異がはっきりしますね。実は絵がどちらかと言うと嫌いなので。私に取って絵は基本的に言葉以上の表現法なのですよね。文章も。表現法のひとつにすぎないと言いますか。
それが何故嫌いに繋がるかと言うと、言葉にすると明確な形になるのと引き換えに他の可能性を潰すので余り好まないのですが、表現出来ないと酷くもどかしい。悔しいですよ、あれは。時間をかけてじっくりと描いたつもりでも、人に伝わらなかったり、自分自身、満足の出来るものでなかったり。
描いても描いても何かが違う。無性に、紙を破りたくなりますね。破りますが。
なので前から絵は上等な紙に描かず、殆どコピー用紙をつかっています。あれも結構値が張りますが。
木炭デッサンで、またスランプだった時に紙に描いた物の位置が明らかに右寄りだった事があったのですが。途中までがむしゃらに描いていたのでそれに気付かず、面取りのかなり最後の方まで仕上げてしまって。それを後から先生に注意された時、思わず自分に腹が立ってパンで全部消してしまったのですよね。
先生は、全部消す事は無いと言いましたが、自分がまぬけに思えて苛立っていたので適当に聞き流してしまいました。一応、八つ当たりする事はありませんでしたが。
勿論、木炭紙は、あの紙質ですので消しゴムを使いすぎた画用紙のように表面はぼろぼろになってしまいました。流石に、一枚250円するだけあって、描けなくなる程ではありませんでしたが。パン屑の掃除が大変でしたね。
今なら、あの時先生が驚いた様子だった理由も何となく分かるのですが、その時は全く理解出来ませんでした。
描けない時、それくらい腹立たしい事は無いです。
自分の基礎的な画力の無さが酷く痛い。「殴りたい」はそう言うときの私の口癖ですが、何を殴りたいかと言われれば、自分としか言いようが無いですね。
 それでも、私が絵を書き続けるのはそれしかないからで、それ以外、人に誇れる物が無いからでしょう。
劣等感の塊みたいな所がありますから。自分で自分を褒めれるようになれるくらい、何かが出来るようになりたいと。
昔は絵が好きだったのかもしれません。今と同じように少しだけ、人より描けたから人に褒められたりするのが快感だったからかもしれません。犬のようですね。
ずっと近くにいたから、疎ましく思えるのかもしれませんし、それ故切り離せないのかもしれませんし。
以前、ある人にお話ししたような気もしますが長時間何も描かないでいると、強迫観念のように描くのですよね。描けなくても。描いていないと、どんどん追い抜かされて行くような気がして。
どんどんどんどん。抜かされて。
私が、無駄な時間が嫌いなのがそこに起因しているのかもしれません。
この時間があれば、何が出来た、何が出来る、何をされた。
人一人の人生で、やりたい事をやり終えるのは絶対的に不可能なのですよね。読子・リードマンではありませんが、生きている間に世界中の全ての本という本を読む事は不可能。どんなに、ロスタイムを無くしても無理です。其れでも、可能だという人は、余程欲が無い方でしょうね。私の場合、上巻を読んだら中巻、中巻を読んだら下巻と、絶え間なく地続きで数珠つなぎのように次々と欲望という欲望が紡がれていきますから。
地位も名誉もいらないので、永遠の時間が欲しいです。ずっと繰り返し繰り返し、本に埋もれて行く日々。
本を読んでいると、時折、このまま死んでしまいたいと思います。
何て幸せな事でしょう。酩酊感に沈んでいくように眠るように。そんな最後が良いですよね。
余談ですが、私の将来の夢は、卒業文集では“大人になる事”とあります。けれど、実は“大人になるまで生きれたら眠るような安楽死がしたい”という事だったりします。
卒業作文、もう少し子供らしい事を書くべきだったなと今更ながら思います。といいますか、夢のある、ような。
書きはじめが、「私は卒業する事となりますが、余り実感はありません。そもそも、卒業とは何でしょうか」とか、そんな感じだったと思いますので;友人中には、小学校のときの物も含め何故か好評でしたが。

 自分の人生は自分が主役だとはいいますが、私は自分が空想の世界のようにドラマティックな人生を送ってはいない事を知っていますし、親にも恵まれ、それなりに下流なりに幸せな生活を送っていると思います。
悲劇のヒロインになるつもりはありません。偶像視されて逆に幻滅されもしましたが、もっと悲劇的な人生を送るような方もいらっしゃる事でしょう。
ただ、悲劇の主人公のようだと悲観的になり自分の事を哀れだと、運が悪かったのだと全てを切り捨てては何も変わらないと思います。私事ですが、忌避すべき事が起こってしまってどうしようもなく悲しいです。その切っ掛けを作ってしまったのは私ですが、受け取った方は以後に活かすことが出来なかったようです。典型的な、自分への甘さの形かと。責任転嫁しか知らない。環境が悪い。言葉では言いつつも、自分の責任を知らない。自分自身が悪いのではなく、自分の“不注意”が悪い、自分の“勘違い”が悪い。これらは、私にも言える事ですので。ただ、環境は作るものだと思いますよ。 極論。今更どうしようもないのですけどね。

 あの時も、冷静になっているつもりなのでしょうが、冷静の意味を取り違えていると愚考します。冷静の逆は、激高ではありませんし、まして混乱ではありません。
私が思うに、情に流されることなく状況を顧みて鑑みる事だと思います。
聞く耳を持たず「自分」を維持する”のは冷静ではありません。
そういえば、本のタイトルでありましたが冷静と情熱が対義語なのでしょうか。


 モチベーションの落差が激しい私ですが、最悪の状態の時に描いたものが、“殴り書き”と評されても仕方が無いと思います。流石に、思う所もありますし、山として昨日から今日にかけてずっと酷い鬱でしたが、シャーペンを握る事自体、苦痛ですしね。人の為に描くことが出来ない人間ですから。
 私自身が、どんなに描こうと思ってもモチベーションが上がらないときは生理的な嫌悪と苛立ちがこみ上げるばかりです。
 ・・・といいますか、そろそろ絵を描きながら悪態を吐く癖を直さないと;;




 
 実はこうして書く事で客観視し、整理しようとしていますが文字がだだ漏れ、もしくは羅列、もしくは吐露されただけでしたね。露悪趣味でも出来たのでしょうか。